会長  戸山 英二

 武蔵野音楽大学声楽科1年在学中にシャンソンの殿堂『銀パリ』のオーディションに合格、レギュラー出演。1961年石井好子音楽事務所第1号専属歌手として活躍。その後、イタリアのサンタ・チェチーリア音楽院に留学。「太陽がいっぱい」「ロメオとジュリエット」の作曲家ニーノ・ロータ氏とアルフレッド・ヴァンティフィオーリ氏に師事。26年間イタリアのローマに在住、カンツォーネ歌手として数々の国際音楽祭で受賞。レコード会社RCAイタリアーナの専属歌手として26年間活躍。帰国後『日本カンツォーネ協会』を設立。 

カンツォーネとともに半世紀

戸山英二 ブログ

1. ご挨拶  

2012年 04月 14日 

 本日(2012年4月14日)より、ブログを始めてみます。
  初めてですので、粗相があろうかと思いますが、
  宜しくお願いいたします。 

 面白くもない人の半生(越えてますが)を綴ってもしょうがないが、
  少しづつ書いてゆきたいと思います。
 
 私のふるさとは、秋田県大仙市協和町。 
 1940年、10人兄弟の6番目として生まれました。 
 畑、荒川と2つの鉱山があって、トロッコの線路がかげろうに
  ゆらゆら揺れる幼少時代の光景を思い出します。
 
  ふるさとの山や川での遊びのほかに思い出すのは、
  絵を描くのが好きだったこと。 地区大会、県大会で
  私の水彩画は金賞や銀賞をもらい、作品はきれいな額に
  入れられ、校長室に飾られていたのを覚えている。
 
  やがて、歌やピアノに興味を抱くようになった。 
 小学校5,6年の頃だったろうか、
 
 生まれて初めてピアノ(グランドピアノ)を見た。 
 そして、その音色に感動した。 「何て美しい音なんだろう、、、」
  これが、私が音楽に魅せられるきっかけだった。
 
 

2. 夜の学校で日々演奏 

2012年 04月 15日

 今日(4月15日)は、イタリア文化会館 アニェッリホールで
 
  私主催の 第9回 ガラカンツォーネフェスティバルを開催しました。
 
 
 ・・・・・・・・・・・・・
 
 
  さて、昨日の続きになります。 私の半世紀の回想を綴っております。
  小学校5,6年の頃に初めてグランドピアノの音色に夢中になったところまででしたね。
 
 来る日も来る日も、夜になると学校へ行っては当直の先生にお願いした。
 
  「ピアノを弾かせてください」。
 
  夏は裸電球に群がる数えきれないほどの虫たちと一緒に、冬はしんしんと雪が
  降り積もる孤独感の中で奏でるピアノの音は心地よかった。
 
 中学生になっても続いた。 今振り返ると、明治時代に建てられた中学校の
  校舎の音楽室で、一人ピアノに向かう自分を不思議に思う。
  木造の古びた校舎、しかもよくホラー映画の恰好の舞台となる夜の音楽室だ。
  一人でピアノを弾くなんて、怖くて誰もしないだろう。 今なら、私もぞっとするが、
  当時は何ともなかった。 意気地なしの私が、どうしてあんな寂しい気味悪い夜の
  学校へ行ってピアノに触りたかったのか。 音楽に取り憑かれてしまったとしか
  言いようがない。
 
  やがて、東京の音楽大学付属高校に入学することになる。 兄が大学を出て
  秋田へ戻ったので、ちょうどいいタイミングで東京へ出してもらえることになった。
  戦後十年経った頃で、東京へ行くのに秋田駅から14時間もかかった時代だった。
 
  当時の東京は、まだ戦争の爪跡が生々しく、人々は一生懸命復興に動き回っていた。
  私は新宿区のベニヤ板一枚で仕切られた三畳の殺風景な部屋に下宿した。
  三食付きで一ヶ月6,000円だった。 ラーメンが35円だったと記憶する。
 
 
  
 今夜はここまで。
 

3. 音大付属高校~音大へ 

 2012年 04月 16日 

 

音楽方面に進もうと上京。 高校入試に臨んだときのことから話を進めます。
 
 今での若者には‘訛り’はあまりないが、当時には若い者にも訛りはあり、
  当然のことながら、私にも強い秋田訛があったのだろう。 声楽の先生たちの前で、
  日本歌曲を歌うように言われた。 予想外れだったが、すぐに「荒城の月」と決まった。
 
  「・・・千代の松ヶ枝」の部分を、「ツヨのマチヶ枝」と歌ってしまったようだった。
  女の先生がくすくす笑いながらも、私の顔を見て、「よく歌えました」と言ってくれた。
  そして、入学試験はめでたく合格となった。
 
  私の入った学校は当時、「東洋音楽高等学校」 と呼ばれていた。 
 現在の東京音大付属高校の前身である。
 
  先輩には、今でも若々しく各方面で活躍されている黒柳徹子さん、一年上には
  大空真弓さんらがいた。 昼休みにはよく卓球やキャッチボールなどをして遊んだ。
  比較的女性が多かったからか、学内のさまざまな場面で、男子学生は重宝がられ、
  出番が多かった気がする。
 
  クラシック音楽を勉強する高校に通っている以上、来る日も来る日もレッスンに追われた。
  朝から晩までピアノやバイオリンの音、発声練習の金切り声に包まれ、
  これが二年も三年も続いたら、私の耳はどうなるんだろうと思ったほどだった。 
 でも、不思議なもので、早々にその音楽学校特有の騒音にも慣れた。 また、入学した
  頃は、はっきり言って、自分の将来が不安でならなかったが、その気持ちも忙しい日々の
  中で薄らいでいった。 


 英語や国語、数学といった一般の学科の宿題はいったいどうやってこなしていたものか、
  それとも宿題みたいなものは無かったのかも知れないが、音楽以外の学科のことは
  まるきり記憶に無い。 いずれにしても、ピアノや声楽の基本についての勉強が、
  毎日優先されていたような気がする。
 
 
  やがて、大学進学について考え始めた。 通っていた高校は、短大の付属校だったので、
  四年制の音楽大学を目指すことを決め、受験勉強に取り組んでいった。
  入試科目は、ピアノ、声楽(イタリア歌曲、「コンコーネ」など)、聴音(ピアノの音を聴いて
  五線紙に書く)。 他に、英語、国語、面接、作文など。
 
 そうこうし、武蔵野音楽大学声楽学科に入学した。 
1959年春のこと。 入学金は7万円だった。
 
 
 
  高校から大学へと進む中で、私の人生を大きく左右する出来事ばかりが続く。 





4.音大のレコードが人生の岐路 

 

2012年 04月 18日 


 大学へ通い始めて数ヶ月たったころから、私はレコード鑑賞室でLPレコードを
  よく聴くようになった。 本場イタリアのオペラなどは素晴らしく、恐ろしいほどの
  迫力で、ただただ感動するばかりだった。
 
  あるとき、訳が分からないほどのショックが私を襲う。 LPレコードの主役たちの
  名前を前にびっくりしてしまったのだ。 世界のオペラ歌手の一流どころは大抵
  知っていた。 が、そこに並ぶのは私が知らない歌手ばかりだった。 
 でも、実にうまい。 「いったいどうなっているのか、、、」
 
  無名の歌手たちでも、大オペラ歌手に引けをとらないほどうまく歌っている
  イタリアという国はどんな国なのか。 
 
 
 せっかく入学した音楽大学ではあったが、そんなこともあり、
  イタリア人には日本人の声では絶対に勝てない、勉強して得られるものではない
  何かがある。 発声や技術云々では決してない別のところで。 そう悶々と考えるように
  なっていた。 そして、私は完全にノックアウトされたような気持ちに陥り、
  クラシック音楽へ進む道が揺らいでいた。 このままでは絶対に無理だと。
 
 
  当時、シャンソンやカンツォーネ、タンゴといったものがちょっとしたブームだった。
  早々に日本人はイタリア人には勝てないと判断した私は、シャンソン、カンツォーネの
  歌手にでもなるしかないかな、そう漠然と思い、将来への見えない模索が始まった。
  ただ、イブ・モンタン、シャルル・アズナブール、エディット・ピアフらが歌う ‘魂、心’ が
  そういう心境の私の胸に無性に突き刺さってきていた。
 
 

 5. 「銀巴里」との出会い 

 

2012年 04月 19日 

 

 シャンソンに心傾いていた頃、そんなときふらりと入った店が、
  かの有名なシャンソンの殿堂「銀巴里」だった。 東京・銀座七丁目に
 1951年11月、オープンした。
 
  その頃私は、シャンソンのレコードや楽譜を買って、自分なりに勉強して
  いたのだが、なかなか思うように歌えなかった。 ちょうどそのとき、作曲学科に
 2年先輩の結城久(ゆうき ひさし)さんがいて、もう既に一流歌手の伴奏者であった彼が、
  私にシャンソンの先生を紹介してくれたのだった。 結城さんは淡谷のり子、美輪明宏、
  石井好子、岸洋子らの歌手と幅広い音楽活動を続けたピアニストである。
 
  銀巴里は、シャンソンやカンツォーネを歌える店として人気を集め、すべての歌手の
  あこがれの店だった。 戸川昌子、美輪明宏(当時は丸山)、青江三奈(別の名前で
  歌っていた)、金子由香利、岸洋子らがステージで喝采を浴びる。 加藤登紀子、
  田代美代子らも登場する。
 
  客の顔触れは豪華で、三島由紀夫、遠藤周作、吉行淳之介ら小説家、詩人の寺山修司、
  ほか仲代達矢、西村晃らの俳優たちがよく来ていた。
 
  数々のヒット曲や直木賞作家としても知られている なかにし礼 も常連の一人だった。
  私が会った当時は互いにまだ学生で、彼は立教大生だった。 「礼ちゃん」と呼ぶように
  なる彼は、シャンソンの訳詞家としてスタート。 やがて歌謡界に進出した。
  彼とは今でも付き合いがある。
 
 1959年、大学一年のとき、私はこの銀巴里のオーディションで優勝した。
  それを機会に、昼の部で歌わせてもらえるようになった。 

 

6. 「銀巴里」 昼の部から夜の部へ 

 

2012年 04月 21日 

 

1959年、大学一年のとき、私はこの銀巴里のオーディションで優勝し、
 昼の部で歌わせてもらえるようになった。
 十曲中七曲はシャンソンだった。 次は夜の部への出演を目指した。
 夜のステージに出るのは、名前が知られるようになる大きなチャンスとなる。
 その大きな目標に向って練習を続け、客に少しでもアピールしようと頑張った。
 
 夜の部に出演するときは、遅くとも昼過ぎまでには銀座七丁目の店へ
 行かなくてはならない。 地下鉄丸ノ内線が開通して間もないころで、今は無い
 西銀座駅(数寄屋橋の横あたりだった)で降りた。 


 らせん階段を十数段下りてゆくと小さな入り口右手に入場券売り場があった。
  その近くには出演者の写真が無造作に張られていた。 ただし、新人だと
  張ってもらえない。 1年ほどして私の写真も加わるようになった。
 人気歌手の仲間入りした気分で、優越感でいっぱいになったものだ。
 そして、銀巴里へ行くのが楽しくてしかたなかった。
 
 
 何をしても楽しい時代だった。 こんな毎日に、周りの多くの大人たちは、
  「いったい、大学の方はどうなってんだよ」 と思っていたようだ。
 
 大学の勉強の方はお恥ずかしい限りであったが、当時、授業にはきっちり出席していた。
  授業の三分の二以上出席しないと試験を受けさせてもらえなかったからだ。
 歌うため、途中で早退することは何度もあったが、まあ自分なりに時間をうまく作り
  大学へは通っていた。
 
 
 あの時代、銀座通りにネオンがちらほらまたたく頃、街並みは実に美しく思えた。
 
 
 
 ネット上でこのような画像を見つけました。 当時はカメラもろくに無かった時代。
 
 2枚目は、確実に私ですよ。 貴重ですね。 驚きました。 共有させていただきます。 

 
 

銀巴里の看板

銀巴里でステージに立つ戸山英二の後ろ姿

7. 1959年頃の「銀巴里」 

 

2012年 04月 23日 

 私が銀巴里で歌いだした1959年当時の店の様子を、もう少し話してみたい。
 
  店内にはバンド(5名ほど)と歌い手が織り成すシャンソンやカンツォーネ、
  そしてラテンの数々の曲が人々の心に安らぎをもたらしていた。
 
大学1年だった私は、ここでのオーディションに合格して店のステージに
  立つようになった。 そのころシャンソン、カンツォーネがブームだったこともあり、
  オーディションはかなり注目されたと記憶する。 確か、男女合わせて30人ほどの
  新人が参加した。 シャンソンを歌う人が多く、カンツォーネやラテンは少なかったようだ。 何せ遠い昔の話で、思い出せる場面はほとんどない。 ただ、間違いないのは、
  私が一位で合格したことだ。 三位までの人に、「銀巴里」への出場権が与えられた。
  本当に嬉しかった。 
 
 
 店内には100人ほどが入れた。 入場料は100~150円だっただろうか。
  メニューにはコーヒー、紅茶、アイスクリームがあった。 
 アルコール類?覚えていない。
 
 
  「銀巴里」には強烈に人々を引きつける何かがあった。
  ぼんやりとした不透明な明かりの下、芸術論に花咲かせた学生のころが懐かしい。
 
 
  現在のシャンソン、カンツォーネ歌手の中で、「銀巴里」で私より先輩は
  男性二人、女性三人 ぐらいである。 あとは数百人、ずらりと後輩ばかり
  なのだから時の流れを感じずにはいられない。
 
  そんな数少ない先輩の一人が戸川昌子さんである。 戸川さんとは今でも
  時々ステージを共にしている。
 
2002年、日本カンツォーネ協会創立記念祝賀会で。
  (画像はすべて新聞記事等からのため、不鮮明であることをご了承ください)
 
 

8. NHK新人歌手登竜門と石井好子先生との出会い 

 

2012年 04月 25日

 1960年、私にさらに大きな出来事があった。
 
NHKのど自慢大会が全盛の時代。 どちらかといえば、NHKオーディションの方は
  あまり話題にならなかった。 だが、力のあるプロ級の新人歌手がどっと集まって、
  それぞれの力強い歌声を披露していた。
 
  オーディションは毎月第一土曜日に行われた。 1~12月の各分野の一位の歌手が
  決選大会に臨んだ。 決選の審査員は、服部正、藤浦洸、古関裕而 ら日本の
  音楽界を代表する人たち。 石井先生はパリ帰りのシャンソン歌手で
 ゲスト審査員として出席していた。
 
ポピュラー部門に私は出場した。 歌ったのはイタリア・サンレモ音楽祭の
  入賞曲 『急流』 という、さわやかなイタリアンカンツォーネだった。
  クラシックをベースに、ベルカント(良い声で歌うという意味)唱法を勉強してきたので、
  どちらかといえば、私にはシャンソンよりカンツォーネが向いていたからだ。
  人生を歌うシャンソンより、愛がテーマのカンツォーネの方が好きでもあった。
 
  なお、この 『急流』 の訳詞をしたのが 薩摩忠さん。 ずっと親しくさせて
  いただいた。 薩摩さんはいずれも優れた訳詞家の音羽たかしさん、永田文夫さん
  らと同世代で、たくさんの名作を残されている。 今でも私の心の中に生きている
  思い出の人である。
 
 
  決選大会、ポピュラー部門で、私は優勝することができた。
  その後思いもかけないことが起きた。 私のところへ、石井先生が、
  優勝祝いの言葉をかけにきてくれたのだ。
 
  ものすごく嬉しかったけれど、半面、何が何だか分からない状態でもあった。
  一週間後、銀座の石井先生の事務所を訪ねた。 事務所ができて二が月しか
  たっていないときだった。 スタッフはマネージャー二人と秘書一人の三人だけで、
  小さな机三脚とアップライトピアノがあった。 「銀座並木通り」6丁目のビル3階、
  ウナギの寝床のような事務所だった。
 

1966年、ローマを訪れた石井好子さんと

手持ちの数少ない稀少な銀巴里での戸山英二

9. 石井好子事務所の専属歌手として 

2012年 04月 26日

NHKオーディション決選大会で優勝(ポピュラー部門)したのをきっかけに、
  シャンソン歌手・石井好子先生に認められ、私は石井音楽事務所の
  専属歌手第一号となってデビューした。 シャンソン、カンツォーネ歌手として
  本格的に歩みだす。 1961年のことだ。
 
  大学生だったが、石井先生のコンサートの前座歌手としての生活が始まった。
  歌手ではあったものの、先生のカバン持ちのほか、バンド(五名)の人たちの
  楽器運びとセッティングなど裏方の役割も多かった。 若かったので何よりも
  力仕事で重宝されたらしい。


 そんな中、自分でいうのも何だが、ステージでの私の歌はなかなか人気を
  得ていたから、こうした私に石井先生は、常に厳しく対応した。 当時、石井
  事務所はシャンソンやカンツォーネ歌手の憧れの的だった。 
 超エリートアーティストが集まっていた。 しかも私はデビューが一番早い。
  ときには優越感にひたることがあったのだろう。 石井先生は、そういった
  羨望の目で見られている私に、思い上がった行動を取ることがないよう
  戒めるために厳しく接してくれていたのだ。
 
  石井先生が亡くなられて今年で2年目(3回忌)を迎えるが、私が70に
  なろうと、お会いすると学生時代のときと同じように子ども扱いだった。
  そして昔のようにいろいろアドバイスしてくださった。
 
 
  私は学生時代ほぼ毎日、授業を終えると、銀座六丁目の石井音楽事務所へ
  直行した。 給料は当時、月2万円だった。

 石井音楽事務所主催の 『'65 パリ祭』 。
  左から石井好子、芦野宏、岸洋子さん方々。 右端が戸山英二。 

10. 石井好子音楽事務所のこと 

 

2012年 04月 27日

 石井音楽事務所には、雑誌、新聞、レコード会社やプロダクション関係など
  大勢の人が訪れた。 中が狭いので、そうした人たちの会話はしっかりすべて
  聞かせてもらった。 中村八大、永六輔 コンビもいた。
 
  石井先生のシャンソンコンサートの開かれる全国各地へは、私は前座歌手として
  同行した。 石井先生とフランスの有名な歌手、イベット・ジローと一緒に私は
  二、三回、大きなステージで歌った思い出がある。
 
  学生時代、石井先生の第一号の専属歌手だったのもアルバイトといえばアルバイト
  であったが、他にも私はいろいろなアルバイトに精を出した。 すべて練習兼ねた
  勉強であった。 銀座、赤坂、六本木辺りのピアノバーでのピアノ弾きだ。
  カラオケなど無い時代なので、客はピアノの生伴奏で好きな曲を歌った。
  伴奏のほか、軽くポロポロやっていればいいので、いいバイトだった。
 
  その当時、国内ではシャンソン、カンツォーネ、タンゴ、ラテン、そしてポップスまで
  さまざまな音楽が流れ、世界のポピュラー音楽の全盛期だったように思う。
  こんな音楽状況にあって、業界ナンバーワンの石井音楽事務所も、歌手、バンドマン、
  マネージャーと所帯が次第に大きくなり、さまざまな事業にも取り組むようになる。
 
 事務所所属の新人歌手のリサイタルを開催したり、シャンソンコンクールも始めた。
  日を追って音楽事務所らしい雰囲気が濃くなり、やがて、私の後輩として、
 加藤登紀子田代美代子らが入ってきた。
 
 
  ところで、そんな状態で、大学の方はどうしたの? と思われるに違いない。
 
  それについては次回。 


11. 石井事務所からの旅立ち 

 

2012年 04月 28日 

 

さて、大学の方ですが、
 
1963年、無事に卒業しました。 ‘無事に’ というわけではなかったです、やはり。
  要領はきわめて良かったはずなのですが、二ヶ月遅れでの卒業と相成ってしまいました。
  どうしてもピアノの単位が取れなかったということが理由でした。 


 個人レッスンの授業で出席不足となり、担当の先生は「あと二ヶ月残って
  レッスンを受けなければ卒業させない」とあくまでも厳しい。 このため半年分の
  授業料を払わされたが、半面、良いこともあった。 なぜなら、卒業証明書を
  学長から直接、学長室で手渡しでもらったから。
  私の四年間の声楽の教授だった早川清一先生に同席してもらったのも嬉しかった。
 
 
 大学卒業後、石井好子先生の音楽事務所の専属歌手として各地で歌い続けた。
  私より後に入ってきた後輩の加藤登紀子、田代美代子らと共に、石井先生の
  前座歌手となり、夜行列車に乗って地方都市での公演へも何十回も出かけた。
 
  私がよく歌ったシャンソンは、「パリの花束」「鐘は鳴る」「幸福を売る男」
  「枯葉」「ロマンス」など。 半分以上はフランス語で歌っていた。
  カンツォーネ、ラテンもたくさんのレパートリーを歌いこなしていた。
 
 
 大学一年のときから本格的に歌い続けた私だったが、次第にマンネリ化してきたと
  思うようになる。 その一方で、前々から心の片隅にあった「イタリアに行きたい!」
  という思いが頭をもたげ、日増しに強くなってきていた。1/31
 
 
  仕事の合間を縫って、イタリア語のレッスンをずっと続けていた。
  イタリア人ピアニストのダリオさんに週一回、イタリア語を教えてもらっていた。
  これが唯一、イタリアへ行くための無意識の準備だったような気がする。
 
  高校、大学とイタリア語を勉強してきた。 でも、会話ができるレベルまでは
  当時は到達していなかった。 それなのに、よくイタリアへ行く気になったものだと、
  今思えば怖いもの知らずの青春だった、とあらためて思う。
 
  イタリア行きを決めたもう一つの理由がある。
  当時の石井音楽事務所は日の出の勢いがあった。 だからこそ、マンネリは
  許されない。 「もっと素晴らしい歌を聞いてもらいたい。 よし!イタリアへ行って
  本場のカンツォーネを勉強しよう」 と思ったのだ。
 
  石井先生に決意を話した。 
 「一年ぐらいなら行っておいで」 と嬉しい言葉が返ってきた。 特別何の注意もなく、
  こうも言ってくれた。 「大いに冒険しておいで」。3/4
 
 
 
  そうして私は、イタリアへと旅立つのだが、それは次回から。
  ただ、まさか、一年の予定の留学が、そのまま腰を降ろして30年近く
  住んでしまうことになろうとは、このときはまだ予想だにしなかった。
 
  私が、他の加藤登紀子や田代美代子、もう少し後輩の岸洋子などのように
  日本の中において名が知れなかったのは、この時点から長い間、日本から
  プッツリと姿を消したことによると思う。
 
 

昭和40年出版の文芸春秋より。 

事務所へ入ってきた岸洋子(美しい人だった)と石井さん。 

「銀巴里」(1951-1990) 出演歌手一覧 

2012年 04月 30日

 イタリアへ旅立つ話をする前に、銀巴里の創業から閉店までの
出演者一覧を掲げておきます。
(日本シャンソン歌手名鑑-1992年刊による-)

  開店当初はオーディションという制度を設けていなかったようだが、
  その辺りの詳細はよく分からない。

1959年になってオーディション第一回が開かれる。 その第一回の
  第一号合格者が私になる。 大学1年だった。 仲代圭吾さんは
  私の数ヵ月後に入ってこられたと記憶している。

1951
1952
1953
1954 美輪明宏
1955 須美杏子
1956 古賀 力、戸川昌子仲マサ子
1957 くどうべん
1958
 
 ・・・1959年以降、オーディションを採用・・・
 
 1959 戸山英二、仲代圭吾
1960 有馬 泉、金子由香利、小海智子、近藤英一、新田耕一、堀内 環
1961 森田 宏
1962 大木康子、しますえよしお
1963 石井祥子、花田和子
1964 村上進 (村上進君は私の教え子である) 
1965 阿部レイ、宇野ゆう子、斉藤 勉、杉 美沙
1966 泉 れい子
 
  ・・・これ以降、私は日本を出たため、まったく存じ上げない。
 
1967 伊東はじめ、木月京子、西原啓子
1968 茅 俊子、出口三保、水城 淳
1969 池田純子、高田まさ江、芳賀千勢子、みなみでかつじ
1970 島本弘子、渡辺歌子
1971 広瀬敏郎、奥田真祐美
1972 峰 大介
1973 安東ゆう子、小貫和子、香川有美、伏見淑子、湯井一葉
1974 池田和子、井関真人
1975 嵯峨美子、佐野加織、深江ゆか
1976 小松原るな、嵯波はづき、日野美子、秋篠樹里亜
1977 青木祐史、高木満寿美
1978 不来方 晃、日高あい
1979 岸本悟明
1980 瀬川 澄、友納あけみ、中山恵子
1981 
1982 大村禮子、桜みさお、クミコ
1983 奥田晶子、上月美智子、友部裕子、若林圭子
1984 栗崎博光、後藤 怜、杉村美恵子
1985 竹下ユキ、高橋良吉、中山エミ、宮園洋子、室田純子、MEGU、結城晃二
1986 黒川恭子、坂本真理沙、新藤夏子、菅原佐知子、大地 緑、球木美甫、田村良一
1987 井芹 遥、五島愛子、杉田真理子、津波井 亘、古坂るみ子、水織るみ
1988 青山圭子、石井慶子、葛木希佳美
1989 井上京子、成美
1990
 
 
・・・・・・・・・・
 
 
 
大学時代通し私は、この銀巴里と日航ミュージックサロン、そして石井好子音楽事務所
  の専属として歌い続けていた。
 
 


12. イタリアへ 

 

2012年 05月 02日

 銀巴里で、あるいは石井先生のところでシャンソン中心に、
  またカンツォーネを歌っていたが、私はもともと大学でクラシックをベースに
  ベルカント唱法を勉強してきたし、歌ってきた中で、人生を歌うシャンソンより、
  愛を歌うカンツォーネの方が好きだったこともあり、本場で勉強したいという
  気持ちがふつふつと湧き起こってきていた。
 
 石井先生は「一年くらいなら行っておいで。大いに冒険しておいで」と言ってくれた。
  そして、銀巴里の先輩だった戸川昌子さんにも相談してみた。

  開口一番、「おう、行ってこい、行ってこい」 だった。
  今も昔も豪快な姿勢は変わらない。

  戸川さんは1962年、サスペンス小説 「大いなる幻影」 で江戸川乱歩賞を受賞した。
  翌年、彼女の第二長編となる 「猟人日記」 が映画化され、自らも出演するなど
  シャンソン歌手という経歴もあって脚光を浴びるようになっていた。


石井音楽事務所の方は、日本シャンソン友の会を作ったことや、
  「パリ祭」 など各種イベントを主催するようになって訪れる人が増え、
  活気がみなぎっていた。
  石井先生も、渡辺プロダクション(ナベプロ)の渡辺美佐さんらと
  交流するなどして、次第に経営者としての貫禄を備えるようになった。
 
  歌うときにはステージが狭く感じるほど大きく見えた。 これは晩年まで
  ずっと変わらない不思議な彼女の魅力であった。
 
  事務所が手狭になり、同じ「銀座並木通り」にあるビルへの引越しが決まった。
  私と専務の二人で、最終的に新しい事務所の確認をした。
 
 
 
それから二週間後。 私はイタリアへ単身、出発する。
1966年4月の下旬、大きな夢を抱いて、横浜港からソ連の客船「バイカル号」
  に乗って、シベリア大陸へと向った。
 
 
  ・・・ 当時はようやく日本人が海外に注目始めたころで、海外旅行の広告さえ
  ほとんど無く、ましてや飛行機など特別な人たちのものだった。
 
2010年5月29日、日本カンツォーネ協会設立10周年で、戸川昌子先輩と。 

★ 石井好子のこと。 

 1966年4月24日、ソ連の客船 「バイカル号」 に乗船し
  シベリア大陸へと横浜港を出航した私だが、
  翌日まだ岩手沖を航行していた。 三日後になってようやく
  ハバロフスクへ着いた。 今考えるととんでもない笑い話だ。
 船酔いには悩まされた。
 
 
  ということで、私がグロッキーになっている船旅の間に、
  石井先生のことを書いておきたい。 日本へシャンソンが
 根付いたのも、石井好子あってのことだから



記述の 11. へ、昭和40年の文芸春秋の写真を載せたが
  その写真下に書かれていた記事を転載しておきたい。


  ・・・・・


  石井好子の名は、フランスから逆輸入されてきたものであった。

  パリのナイトクラブで元大臣(昭和40年当時は法務大臣の石井光次郎氏)
  の娘が歌を歌っているということが、パリ帰りの人たちによって知らされた。

  帰国後の活躍ぶりは多言を要すまい。 とにかく七月十四日のパリ祭を、
  シャンソンのお祭り日と間違える人も出てくるようになったという今日の
  現象に、石井好子の貢献ぶりが推しはかれよう。

  石井好子の肩書きは、シャンソン歌手、石井音楽事務所社長、シャンソン
  友の会会長、そしてブリジストン液化ガス会社勤務の土居道夫夫人、
  それにもうひとつつけ加えれば、当人は恥ずかしがるだろうが随筆家。
  「パリの空の下オムレツのにおいは流れる」 は日本エッセイスト・クラブ賞を
  受け、近くまたサンフランシスコでの苦学時代からシャンソン歌手になるまでを
  まとめた回想記の連載を始めるという。

  四年前事務所をもったといは、石井好子を含めてたったの三人だったのが、
  現在はスタッフ二十六人、タレントは専属十四人、準専属が二十人、
  バンドを九つもかかえるほどの規模に広がった。
(11.へ載せた写真。 私、大木康子、山崎肇、田代美代子 の顔もある) 
 
「シャンソンて地味でしょう。 それにうちの人たちは、どうも人を押しのけて
  もという欲がなくてねぇ。 外国の革命記念日に何も日本人がわざわざ騒ぐこと
  などないじゃないかっていうけれど、シャンソンを広めるためにも、また若い歌い手
  のためにも、いいチャンスだから利用させて頂いているの」
 
 

左・石井好子先生
  中・越路吹雪さん
  右・文芸評論家であり仏語翻訳家の小林秀雄氏
 
 

私の後輩として石井事務所へ入ってきた加藤登紀子の学生時代。 
当時はまだ東大文学部西洋史科4年だった。
 
 
 

13. ハバロフスクからモスクワへ 

 

2012年 05月 04日 

 

船酔いに悩まされた船旅だったが、
  横浜港からようやく三日目になってハバロフスクへ到着。
  今度はシベリア鉄道を乗り継いでモスクワへ向かった。
 
  モスクワ文化交流へ向かわれる作詞家の
 江間章子さん が同船しておられた。
  モスクワまでご一緒で、「バイカルの思い出」 などという詩を
  書かれたので、それに私が即席で作曲し歌ったりなどし過ごした。

  夏がくれば 思いだす~ と尾瀬や水芭蕉を歌った
  歌詞で有名な 「夏の思い出」 の作詞家として名高い。
  「花の街」 などもそう。 昭和を代表する作詞家である。


ところで、「夏の思い出」、この歌を初めて歌ったのが
昭和25年、石井先生だ。 また、現在私の住まいしている
  住所から江間さんのお宅まではほんの3分のところだった。 
それも今のところへ越してきて15年ほどしてから偶然知った。
  自由が丘で36年ぶりでお会いしたからだ。 
ともに不思議な縁であった。 
 
 
・・・・・・・・・
 
  モスクワまでの途中、パリ、マドリードなどへ行く日本人学生数人と
  仲良くなった。 それぞれの目的地への列車が出発するまでの
  三日間(これまた3日)、一緒に行動することにした。
 
  まだモスクワの町は寒かったが、ボリショイ劇場、クレムリン、
  モスクワ大学、そしてチャイコフスキーの大きな彫刻など、このときと
  ばかりいろいろ見て回った。 あっという間に三日間が過ぎた。
 
 
これからは全員てんでんばらばら一人旅に突入するのだ。 
寂しく別れなければならない。 「列車の旅はみんなと一緒だったし、
  のんびりとしていてよかったなぁ」。 別れた途端、ホームシックになった。
 
  一人になると、全く分からない言葉が急に周りを飛び交っているように
  感じて困ってしまった。
 
 
 
 
 
江間先生は2005年にご逝去されたが、
  ご生前にお会いできたことまたご近所であったこと、
  また一つの思い出ができた。
  大変失礼とは思うが、今は主の無いご自宅を
  撮らせていただいた。 季節の花だけは変わらず咲き乱れている。
  そして今はちょうど水芭蕉の季節でもある。 



14. ワルシャワ から ウィーンへ 

 

2012年 05月 05日

 シベリア鉄道で出会い友達になった数名と別れ、
  孤独で不安がいっぱいの中、ポーランドのワルシャワで
  途中下車した。
 
  列車が二時間以上も停車するので、その間は街へ出ても
  よいとのことだった。 駅を出てその周りを歩いていたら、
  小さな子どもたちに囲まれてしまった。 日本のボールペンや
  五円玉と、ポーランドの絵葉書やバッジと交換してほしいという。
 
  私はできる限り応じた。 なぜなら、絵葉書とバッジは、
  ポーランドが生んだ偉大な、そして私が尊敬してやまない
  ショパンのものだったからだ。
 
 
 ワルシャワを出発し、やがてオーストリア・ウィーンへ着いた。
  ここでようやく心細さが薄らいだ。 音大の同級生がひと足早く
  ウィーンへ来ていて、ウィーン少年合唱団で指揮の勉強を
  かねていた。
 
  二人でヨハンシュトラウス、シューベルト、ベートーベンなどに
  まつわる施設、建物を手当たり次第に見学して歩いた。
 
  一番はっきり覚えているのは、バイオリンを弾いているヨハン・
  シュトラウスの等身大の彫刻像だ。 確か黄金色をしていて、
  きらびやかなワルツ王の全盛期を思い起こさせる何とも美しい
  貴公子然とした姿で、公園の主のようだった。
 
  幸い私は、大学の同級生の助けを借りて音楽の都ウィーンの街の
  たたずまいを大いに満喫できた。
 
 

1966年、ウィーン、ヨハン・シュトラウス像の前で。
 
 

以下はブログ内容が前後してしまうが、大学の卒業アルバムから。
 22歳の私。 すでに銀巴里、日航ミュージックサロン、そして石井好子音楽事務所の専属として歌っていた頃。
 
 
 

親友の小向徹君。 ザルツブルグに住んでいた。
  数年前に急逝したが、晩年まで付き合えた。
  学者肌の彼は音楽専門誌の学術書などに携わっていたようだ。 
 生涯独身で通したが、ドイツパンの作り方も学んだらしく 私の子ども(娘)が小さかった頃、よく定期的にドイツパンを作って送ってくれた。
  かっこよかった彼も、子どもからすれば 「パンのおじちゃん」 だった。
  今、彼の遺した本たちは、弟さんを通じ私の手元にある。
 

向かって右から小向君、私、声楽科の早川教授、
 メガネは教授より教授っぽい雰囲気の同級、片山君。
 
 

こちらは高校時代のスナップ。 
 右端の学帽をかぶっているのが、私。 17歳、遠足で。
  東洋音楽高校(東京音大付属高校の前身)
 詳しくは3.に記載。
 

15. ウィーンからいよいよイタリア入り 

2012年 05月 06日

  ウィーンを満喫した後、私を乗せた列車はやがて目的地イタリアへ入った。
  「ベネツア(ベニス)、ベネツア」と叫ぶ声でイタリアへ来たのを実感した。
  横浜港を出てから長い旅路だった。 夢にまで見たイタリアである。
 
  あのカンツォーネやオペラのように、きっと情熱があって素晴らしい
  国に違いない。 当初は、何年もではなく十ヶ月から一年ほど滞在する
  予定にしていた。 だから、できるだけたくさん見て回ろうと思っていた。
 
  勇んで飛び出したベニス駅の前には、映画のワンカットのような風景が
  広がっていた。 行き交うゴンドラの姿がそれだった。 「美しい」、そう
  思った。 自分が今、イタリアの地にいるのだという優越感のようなものを
  感じていた。
 
 
  一時の興奮がさめると、心配が頭をもたげてきた。 実は、イタリアに
  着いてからの具体的で綿密な計画はなかったのだ。
  強引に出かけてきたことは、半袖で富士山に登るようなものだったろうか。
  でも、今思い起こすと、好奇心旺盛だったあのころの自分が懐かしい。
 
 
イタリアへ入国した1966年5月、その頃のイタリアカンツォーネは
  世界的にヒットした曲が多く、第二期黄金時代だったのではないかと思う。
  サンレモ音楽祭が全盛を迎えていて、数々のヒット曲が生まれた。
 
  エルビス・プレスリー、トム・ジョーンズなども好んで英語で歌い始めたり
  したものだから、アメリカやイギリスの歌のように思われ、いまだに勘違い
  されている方々がいる。

 
1966年5月、スペイン広場で。 
 
 

16. 最終目的地 ローマへ 

 

2012年 05月 07日 

 

1966年5月のある朝、私は、終着のローマ駅に降り立った。
  あこがれのローマ。 最終目的地だ。 
 
 しかし心は重く、ローマ駅広場(五百人広場と呼ばれている)
  のベンチに、私は、長旅をして疲れ果てた渡り鳥のように
  腰をかけていた。 
 
 なぜなら、決まった行き先もなく、唯一、石井好子先生の同級生で
  ローマに住んでいた声楽家(ソプラノ)の山口和子さんの電話番号を
  知っているだけだったのだ。
 
  「よし、イチかバチか電話かけてみよう。 でも、もし不在だったら
  どうしよう」。 不安は募る。 ローマに着いてどこへ行こう、誰に
  会ってどうしようとの計画は全くなかった。 どっち道、十ヶ月か
  一年の滞在予定だし、何とかなるだろうと軽く考えていたせいだ。
 
  恐る恐る山口さんに電話したら、電話口から彼女の声がした。
  そのときの嬉しかったことといったらなかった。 山口さんは早速、
  その夜からの宿泊先を探してくれた。 そこは学生向けの下宿屋
  だった。 十日ほど滞在している間に、今度はちゃんとした一般の
  下宿屋を紹介してくれた。 
 
 
 
 当時はまだ、海外旅行などする人はほとんどない時代だったし、
  今のようにインターネットで宿泊先を探すことも、またその土地が
  どういう状態であるのかなど調べる手立てが無かった。
  しかし、私の時代より以前の先達たちは(音楽家であれ画家であれ)
  もっと大変な思いをし洋行されたのだろう。 頭が下がる。
 
  ノンストップ十数時間で快適に飛行機は到着し、
  一から百まで揃っている現在がむしろ嘘のように感じる。
 
  
  コロッセオの前で。 

17. ローマの下宿屋のおばさんと皇帝ネロ 

 2012年 05月 08日

 下宿屋のおばさんは、中部イタリア出身のベッティーナさん
  といって、歌の好きな明るい人だった。
 
 下宿代は月6万リラ(三食付)だった。 一般の人のサラリーが
 15万~20万リラほどの時代だ。

 下宿してすぐにピアノ屋からピアノを借りた。
  イタリアの一般家庭の建物は石造りだから、ピアノの音も
  あまり気にならない。
 
 
 ここでカンツォーネについて書いておきたい。
 
  カンツォーネを知るにはまず、ナポリ地方の歌・民謡(ナポレターナ)を
  知る必要がある。 そうでないと始まらないのがカンツォーネの
歴史なのだ。 なお、カンツォーネとは日本語で 「歌」 を意味する。
 
 
ナポリは古代ローマの頃からすでに音楽の町として有名で、
 ナポリ音楽祭が定期的に開かれていた。 それはプロの歌手の
  コンテストで、優勝者には ‘月桂冠’ と ‘名誉’ が与えられたという。
 
 紀元63年に、皇帝ネロ (ローマ帝国の第5代皇帝)が
歌手として出場し優勝した記録が残っている。
 (A・ウェイゴール著: 「皇帝ネロ」
 
 
 
 
  画像は、月桂冠を冠した ‘第4代’ 皇帝のクラウディウス。
  ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス
  (Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus) (BC10-AD 54) 
(Wikipedia より)
 
 
 

ナポリ音楽祭で優勝した5代皇帝のネロの方は、 
ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス(ドルスス)・ゲルマニクス
  (Nero Claudius Caesar Augustus(Drusus) Germanicus) (AD37-68)。
 
 
  月桂冠といっても酒ではないが、
  月桂樹の木はギリシア神話における霊木で、
  古代オリンピア競技の優勝者などにも授けられ、
  現代でもオリンピック競技の中でマラソンの優勝者に授けられたり、
  またF1グランプリの優勝者にもよく見られる光景。
 
 
  それにしても、暴君で名を馳せたネロの歌声というのを
  聴いてみたかったものだ。

 18. イタリアで自動車免許取得 

 

2012年 05月 10日 

 ところで、私の名前であるが、本名ではない。 
 芸名である。 由来はというと、
 
  山手線の新大久保ー高田馬場辺りに西戸山地区という一帯が
  あり、昭和30年代初め上京して住んだ下宿がここにあった。
  住所は ‘百人町4丁目’ だったと思う。
 
  この地区は今でこそ整理された街となり、韓流ファン、韓国イケメンの
  聖地とかいっているが、当時は長屋のようなバラックが立ち並んでいた。
  イケメンの元祖といえば元祖となる?高校生だった私が下宿していた
  二階建てアパートの女主人は、小柄な五十代の人だった。 歌の好きな
  人で、いつも鼻歌を交えて歌謡曲を歌っていた。 
 
 何てことはない。 名前の由来は新宿の ‘戸山’ に住んでいたことと、
  そして日本の名テナー・藤原義江の芸名が 「戸山英二郎」 だったこと。
  それに、銀巴里の先輩・戸川昌子さんが、「私が ‘川’ なんだから、
  あんたは ‘山’ だ」 といったことから決まっただけの話。
 
  実際には歌や訳詞は戸山、作曲では本名を使っている。
 
 
  ・・・・
 
 
  さて、イタリアでの話の続き。
 
 
  滞在は1年ほどと考えていたので、日本に帰る前に、自動車免許を
  取ってしまおうと考え、自動車学校へ入った。
 
  イタリアのシステムは、すぐに一般道路で運転させるのだ。
  日本のように自動車学校内で練習した後、仮免で道路に出るが
  それとはまったく大違い。
 
  ろくにハンドルも動かせない状態でいきなり街の中に出るんだから
  たまったものではない。 また、イタリア人の運転というのは
  法規あって無いようなところがあったから怖くてならなかった。
 
  それでも運転はすぐに覚えた。 けれど、法規はそうはいかない。
  すべて丸暗記しなくてはならない。 マルバツ式の試験というから、
  大学ノートへ何千回もイタリア語の車に関連した単語を書き込む日が
  続いた。 こうした苦労が実ってか、見事一発で合格できた。
 
 
  イタリアへ行って約8ヶ月経った、1967年初めだった。 

19. ペルージャ外国語大学 

 

2012年 05月 11日 

  1967年、イタリアへ渡って8ヶ月過ぎた頃、私は現地で
  運転免許を取得した。 そして間もなく、フィアットの500cc
  の中古を10万リラで買って、街中を運転した。
  楽しくて楽しくて、毎日、ローマ市内を走ったり、郊外まで
  出かけたりした。
 
 
  これより少し前、日本へ帰る前にもっと本格的にイタリア語を
  勉強しようと思い、1966年11月、中部イタリアのペルージャ
  というところにあるペルージャ外国語(人)大学へ入学した。
 
  半年コースの初級クラスから入ったが、テストですぐに中級クラスへ
  まわされた。 これにはわれながらびっくりした。
 
  なだらかな丘の上に広がるペルージャの街は、中世期に栄えた
  歴史ある古い街で、赤茶けた色の建物が古びて鉛色に見えた。
  この外国語大学は国立で、授業料らしきものを払った記憶がない。 
 イタリアでは教育費はタダ。 それも外国人に対しもそうだから驚く。
 
  外交官や商社マンなど、外国から来た人たちは必ずといっても
  いいほどこの大学に入り、半年ぐらいはイタリア語の特訓を受けていた。
  ローマまでは高速道路で二時間半ほどだった。
  今でもたくさんの外国人学生が勉強しているという。
 
  この大学の現在の状態: http://www.unistrapg.it/
 
 
  入学してまずびっくりしたのは、学生はすべて外国人だったこと。
  アラブ系、ヨーロッパの国々、台湾、韓国、日本、カナダ、アメリカ、
  シンガポール、アフリカ、南米、ソ連、、、 全世界から集まっているので、
  オリンピックとはこんな感じなのだろうと思った。
 
  世界各国からきた人たちが全員イタリア語で話すから、
  ちょっと異様な雰囲気が漂っていた。 
 過ごしてみると、何とも楽しい外国語大学だった。
 
 
  しかし私は、もう日本へ戻る準備もしなくてはいけなかったので、
  いつまでものんびりとオリンピック気分に浸っているわけにはゆかず、
  予定の半分を残し、ローマへ戻った。
  以前暮らしていた下宿先へまた帰って、皆に喜ばれたのだが、、。
 
 
  イタリア語の会話もだいぶ上手になったし、車の免許は取ったし、
  これでいいか、、。 もう日本へ戻ろうかと思い始めたものの、
  一方、私は何のためにここまで来たのだったか、のそもそもの原点が
  中途半端に気持ちの中でくすぶっていた。 歌の勉強にきていたことを
  すっかり忘れていた。 それほど滞在を謳歌していたのだ。
  本来の目的を果たせないで帰国は絶対にできない。 
 1年では到底足りない、そう感じていた。
 
 
 
 

 ローマの下宿の人たちと 

 ペルージャで 

20. サンタチェチーリア音楽院へ 

 

2012年 05月 12日

 あっという間の1年という短い期間で、語学や自動車免許などと
  いったことに費やされ、本来の目的を達成していない心残りがあり、
  私は滞在を伸ばす決心をする。 石井さんや戸川さんなどから
  激励の言葉を受けて日本を出たものの、これでは日本へ戻っても
  何の進展もない。
 
  ローマに住んでいるからには、何としても世界的に有名な音楽院
  だけには頭だけでも突っ込んでみたい。 そう思わせたのが サンタ・
チェチーリア音楽院だった。

  日本にいるときは、本格的な音楽の勉強をする必要はないと考え、
  とうの昔にクラッシック音楽からは足を洗っていたつもりだった。
  そんな私だったが、無名でも素晴らしい歌唱力をもったオペラ歌手が
  たくさんいるこのイタリアで、一から勉強しなければ意味がない。

  私は今まで書いてきたように、日本の音楽大学の声楽科を卒業して
  いたので、筆記や実技の入学試験はなく、書類審査だけだった。
  卒業証明書や四年時の成績表などだけを提出したような記憶がある。


  ローマにいる間になるべく多くのことを学びたい、と思う反面、
  日本での授業の延長が続き、同じようなものならばやり切れないという
  気持ちとが交差した。 でも、とにかく頑張ってみよう、授業の合間を縫って、
  本来のカンツォーネの歌唱力を磨くためにも、と、別途でカンツォーネの
アルフレッド・アバンティフィオーリ先生 にも付いた。 
 
大変欲張りな考え、いや希望を抱き、
  サンタチェチーリア音楽院の門をくぐっていた。
 
  日本人で声楽家として名を知らしめた歌手というのは、
  極めて少なかったし、どうせわかり切っている卒業後の自分の声楽家
  としての道を考えれば、あまり意味のないことのように感じながら。
 
 

ローマの下宿先で 

21. 戸川昌子先輩、ローマへ 

 

2012年 05月 14日 

岸信介総理がドイツに日本文化会館を作った関係で
  (と記憶しているが)、日本から文化人が渡欧してきていた。 
 その中に、私の銀巴里の先輩である戸川昌子さんもいた。
  イタリアへ来てまもなく1年になろうとしていた頃だ。
  私は滞在を伸ばすことを決め、チェチーリア音楽院へ通い、
  カンツォーネの個人レッスンも受け、音楽に集中していた矢先だった。
 
  1967年3月12日、
  偶然にもローマのイタリア文化会館で催しがあり、
  ドイツからイタリアへと立ち寄ったのだった。
  1年ぶりの再会だった。
 
 

ヴィアベネトのカフェであったか、
そのとき、私へ手渡してくれたメモ
 同じ一枚のメモ用紙の表裏に河童の絵で有名な 清水昆先生 からのもの

戸川さんからのもの 

22. RCAイタリアーナ主催 カンツォーネコンクールへ 

 

2012年 05月 15日

 イタリアへきて1年が経とうとしていた。
  当初の予定を繰り上げ、私は音楽院通学と
  カンツォーネの個人レッスンに集中していた。
 
  1967年初夏、レッスンを受けていたマエストロ、アルフレッド・
  アバンティフィオーリ先生 の勧めで、先生が専属作曲家をしていた
 RCAイタリアーナレコード主催の第3回カンツォーネコンクールへ出場した。
 
RCAイタリアーナ: http://www.italianprog.com/l_rca.htm
 
 
  この大会は、広く知られた歌手の テェディ・レーノ が企画した新人歌手
  発掘のための催しで、三回目を数えていた。 初回、二回目の優勝者は
  すぐにデビューし、スター街道を歩んでいる。
 
  予選が各地で一年もかけて行われ、四千人もの中から数十人が
  決選大会に進む。 その中に私も残っていた。
 
 
  決選大会の会場は、ローマ中心部から南へ30㌔ほどの郊外にある
  アリチアの大広場だった。 だからこのコンクールを アリチア・フェスティバル 
ともいう。 カンツォーネの最盛期を示すように、決選大会の模様は
  イタリア国立放送(RAI)によって全イタリアにテレビ中継された。 
当時のカンツォーネの人気ぶりがうかがえようというものだ。
 
  私は上位三人の中に入った。 が、惜しくも優勝は逃し、二位の準優勝
  となった。 優勝者は名前は忘れたが同門 (アバンティフィオーリ先生の
  門下生) のイタリア人だった。 優勝、準優勝と二人を出し、大変喜ばれて
  いたのを思い出す。 また、イタリアのお茶の間でも、テレビを見ながら、
  「まじめそうな」 日本人の新人歌手が突然入り込んでいったようなものだから、
  びっくりした人も多かっただろう。
 
 
  この結果は私の郷里・秋田へも知れ、
  地元の新聞や雑誌等にも載ったようだ。 
http://common.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/067/pdf/067_063.pdf
こんな記事があったのも知らず、たまたまネット上で見つけた。
  また日本の各紙の端にも載ったようだが手元にはない。 
 
 

 コンテストで歌った2曲が収められたレコード。
 ‘IL GIORNO CHE ME NE ANDRO’ と ‘NEL SOLE’ の2曲。
  コンテストの緊張感、臨場感が今も残る若かりし頃の声。
  私にとってはたった1枚しかない貴重なもの。
  また、決選大会の写真もどこかに仕舞いこんでいるはずだが、
  残念ながら見つからず。 

23. イタリアのレコード会社 (RCA) と専属契約を結ぶ 

 

2012年 05月 17日 

 アリチア新人歌手コンテストで準優勝した実績が認められ、
  私は RCAイタリアーナ と正式契約を交わした。
  それに伴い、シングル盤を二枚リリースした。 
 
 今聴き返しても良い出来のものだったと思うが、なにぶんにも
  カンツォーネの黄金期で強豪揃い、残念ながらヒットチャートを
  賑わすことはなかった。 そのメロディは今でもひっそりと私の心の
  中に生きている。 
 
 
 
 1枚目の写真は、
  レコードが出た後の私を紹介するイタリアの新聞記事からの抜粋。 
 アリチアへは ‘本名’ で出た ので (赤線部分) 、Toyama ではない。
 
  2枚目は、RCAから出した初シングル。 
 A面の 「さよなら アモーレミーオ」 は私の自作なのだが、、
  師匠のアバンティフィオーリとなってしまっている。 
 名前は、コンテストのときのまま、KATO。 ‘カート’ と
  イタリア人には言いやすかったせいもある。
 
  今でも損傷なく聞ける。 私の若かりし頃の元気でのびやかな
  (ちょっと青臭いが) 声が45年前のまま残っている。
 
 
 

24. ナポリ名物ピエディグロッタ音楽祭 からサンレモへ 

 

2012年 05月 20日

アリチアのコンクールで準優勝したのをきっかけに、
  特に1969年から1970年代前半にかけ、南イタリアを中心に
  各地の音楽祭で歌った。
 
  初夏から初秋にかけてどんな辺鄙なところでも守護神祭りがあり、
  カンツォーネ歌手4,5人を招き、メーン行事として中心部の広場に
  作られた舞台の上で盛大なコンサートが行われる。
 
  別名 「広場の音楽祭」 (フェスタ・ディ・ピアッサ)に私は数多く出場し、
  多くの歌手、そして地元の人たちと交流した。
 
 
  その中で最大級なのがナポリ名物、ピエディグロッタ音楽祭だ。
  ここからは、「帰れソレントへ」「フニクリフニクラ」「オーソレミオ」
「サンタ・ルチア」 など日本人にもよく知られているナポリ民謡が
  生まれた。
 
 
  私が日本人として初めて出場した1968年夏は、往年の賑わいは
  無くなりつつあったが、サンタ・ルチアの港に面した大きな広場で歌う
  のはとても気持ちよかった。
 
  ナポリ最大のものだったこの音楽祭が翳りを見せはじめてきた
  背景にあったのが、取って代わる ‘サンレモ音楽祭’である。 
 
 
これ以降、舞台は、南イタリアから北イタリアへと移ってゆく。
 
 
 
  1枚目は新聞記事からのものなので画質悪しだが、
  ヘラルドで歌う私と、2枚目以降はイタリア空軍主催の
  音楽会で何やら私が賞をいただいたときのもの。
 
 

★ ナポレターナは戦後復興の人救う歌 

 

2012年 05月 20日

 17.で、カンツォーネを知るには、ナポリ地方の歌・民謡
  (‘ナポレターナ’ という) をまず知る必要がある。
そうでないと始まらないのがカンツォーネの歴史なのだ。
  と書いた。

もう少し、このナポレターナのことを書いておきたい。


  1945年、第二次世界大戦終了とともに人々へ
  心を慰める歌を贈ったのは、ミラノ、ローマよりナポリが先だった。

「俺たちはナポリっ子」「サンタ・キアーラの修道院」 「ザザは何処へ」
「浜辺の石段(スカリナテッラ)」「ルーナロッサ」 などのナポレターナは
戦後復興の歌として愛唱され、人々を絶望から救い、生きる力を与えた。

  「浜辺の石段」 は恋人が外国の旅行者と去ったカプリ島の嘆きを
  歌ったもの。 こうした時世ソングばかりではなく、情熱的な歌、
  あるいは純粋な恋の歌もたくさんヒットした。

  やがて歴史あるナポリ音楽祭も復活。 ナポレターナの名曲が
  次々に生まれてくる。


  しかし、戦後のそんな華やかなナポリの黄金期もつかの間、
  南イタリア・プーリア (ナポリから200㌔ほど南のアドリア海に面した地方)
  出身のシンガー・ソングライター、ドメニコ・モドーニョ が、強烈で個性的な
  歌でデビューし、次々と大ヒットを生んだ。


イタリア語でシンガー・ソングライターのことを、カンタンテ(歌手)と
  アウトーレ(作曲家)をくっつけて ‘カンタトーレ’ と呼ぶ


彼の曲「ヴォラーレ」 が第8回サンレモ音楽祭(1958年)で
  優勝曲となり
世界中で大ヒットした。 このあたりから、サンレモ音楽祭が
  一段と注目されて、イタリアカンツォーネブームが到来する。
アドリアーノ・チェレンターノ、トニー・ダララ のような、
  それまでにない強い個性を持った歌手が続々と登場した。
 
 
 
 

ナポリで 

イタリア人女性歌手らのパワーに、日本人男一人が追いやられているわけではない。 (音楽祭出場のときの待ち時間でのもの) 

★ 親友、クラウディオ・ビルラ (Claudio Villa) のこと。 

 

2012年 05月 21日

 下の写真は、1972年、ローマの自宅前で撮ったものだが、
  ローマへ行ってからすでに6年も経ってしまった頃のもの。
 私の先輩であり大親友だった クラウディオ・ビルラ と。

  イタリアでは、年齢差があろうと、親しくなれば ‘tu’ で呼び合うのだが
  そういう関係だった。 互いの家を行き来していたが、私のところへは
  いつもこのバイクでやってきた。 たまに愛車のランボルギーニでもやってきた。
  隣近所のおばちゃん達が、ビルラが来ているということで、いつも大騒ぎだった。

  クラウディオは ‘カンツォーネの王様’ と言われている男。
トラステーベレ地区というローマの下町の生まれのローマっ子。
  頭の非常に良い、バリバリのイタリア共産党員でもあった。

  夜更けまで話し込んだりポーカーをしたりしながら、
  日本のウィスキー‘だるま’(サントリー) が好きで、残ったものは
  もらってゆくぞと言っては持ち帰った。 日本の白いご飯を炊いてあげると、
  それにしょう油だけかけて (あればバターをのっけて) 食べるのが大好物だった。


  1987年、61歳という若さで突然他界してしまった。 歌いながら死んでいった。
  歌っている最中、脳溢血を起こしたのだ。 私の嘆き悲しみようはなかった。
葬儀で別れを告げてから、今年で25年が過ぎた。

  生きていれば、86歳。 彼が生きた61年間よりも、私の方が10年も
  今では年長になってしまった。 痩せていた私も、晩年の彼のような体型に
  なってきた。 薄くなった頭髪もそうだ。 でも、私が日本でこのようにまだ
  カンツォーネを続け、そして彼の持ち歌を歌いついでいることを知ったら、
  どんな言葉が返ってくるだろうか。 私のステージへも特別ゲストとして
  出てもらえたのに、といろんなことを想う。


特に、彼の持ち歌だった ‘ Amore Mom Amour My Love’
  (アモール モナムール マイラブ) は、私は定番として必ず歌っている。
だから私の側にはいつもクラウディオは生きている。


Wikipedia にはこう書かれていた。

  クラウディオ・ビルラ (Claudio Villa ,1926年1月1日-1987年2月7日 )。
  イタリアのポピュラー・ミュージック界で最も偉大なアーティストの一人である。
  生涯に3000曲以上の音源を録音し、45のミリオン・セラーを記録した。
  また1955年以来サンレモ音楽祭に4度優勝し、ナポリ音楽祭(1963年)や
  カンツォニッシマ (イタリア国営放送の音楽祭)(1964年、1966年) にも優勝。
  本名はClaudio Pica (クラウディオ・ピカ)。



You-tube でビルラ晩年のものを見つけた。 1984年頃。
Un' Amore Cosi' Grannde

  以下は Amore Mom Amour My Love
クラウディオ38歳頃の若き歌声と、昨年2月、私がホーム録音
  (ピアノ弾き語り)で入れたもの。 71になっての声なので、ご了承を。

クラウディオ・ビルラ (日本語とイタリア語)
 
 
  今秋、彼の歌ったものを集め、没後25年目の追善コンサートを企画している。
 
 
 

50代後半(晩年)の、懐かしい顔。
今でも傍で、「カート(KATO)」 と私を呼ぶ声が聞こえてきそうだ 

TV新番組でクラウディオと一緒に出たとき。(リハ途中の写真がイタリアの雑誌に掲載されたもの)私はイタリアでは本名でやっていたため、KATO Yoshiki となっている。 

25. サンレモ音楽祭 

 

2012年 05月 23日

 ピエディグロッタ音楽祭はナポリで最大級の音楽祭だったが、
  この音楽祭が衰退していった背景に ‘サンレモ音楽祭’ があった。
 
  と、先の 24.へ書きましたが、その続き、
 
 
  イタリア最西端にあるサンレモは、カンヌ、ニース、モナコなどから近く、
  これら観光地から誘客を図ろうと1951年2月、新曲コンテストが
  始まった。 次第に参加する歌手も増え、ヨーロッパ各国に放送される
  ようになって、年を追うごとに規模が大きくなった。
 
  日本からは、1965年に伊藤ゆかり、1968年に岸洋子が出演した。
  後にも先にも、日本からの出場は現在に至るまでこの二名のみである。
  それはキングレコードがサンレモとタイアップしていたこともあり、日本人枠
  として設けてくれていたことによる。 それだけ出場するのは難しい。

なお、’65の伊藤ゆかりさんについては、私のイタリア行きの前のことで
  詳細は知らず。 サンレモを把握しているのは’68年の岸さん以降。


  サンレモ音楽祭は何といっても最高のイベントで、
  全盛期の1967年~71年と、5年間続けて参加したのは、
  日本人では私ひとりではないだろうか。

毎年2月下旬の開催時期になると、私は歌い手以外に、日本からの
  歌手たちの ‘通訳’ としても多忙な毎日を過ごしている。

  私にとって一番印象深いサンレモ音楽祭は、岸洋子が出演したときだ。

  私は岸さんより5歳も年下だが、銀巴里も石井好子音楽事務所も
  私の方が先輩だった。 (岸洋子については、11.へも掲載)
  彼女とはサンレモ期間中、まるまる一ヶ月、行動を共にした。


(ちなみに、Wikipedia にある彼女の紹介には、
  病気のためにオペラ歌手を断念してシャンソン歌手を志したとあるが
  まったく間違った記述である。 発病されたのは実はこの68年サンレモの
  直後であって、そのためにオペラを断念したのではない。 その後の彼女の
  活躍は日本にいた皆さんの方がお詳しい)


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1971年は、『ヴェネツィア音楽祭』 へも私は出場した。
  当時の写真や記事がどうしても見つからないのだが、
  ヴェネチア音楽祭も私には思い出深いものだった。
  1952年シチリア島生まれの マルチェッラ(Marcella Bella) が一緒で、
  彼女は新人部門・銀のゴンドラで確か二位だったと思う。 翌1972年には
  サンレモ音楽祭に初出場し入賞。一気にスター歌手となっていった。 
 
 

イタリアを訪れた岸洋子と。 1968年。

所属のRCAが撮ってくれたもの。 
 今となれば恥ずかしい。 ローマ・エウルで、1969年。 

戸山英二が語る半世紀を越えるカンツォーネの歴史

戸山英二氏がイタリアに渡り、実際に見聞き体験してきた半世紀を超えるカンツォーネの歴史と日本での普及について、戸山英二氏自身の言葉で語ります。

1.カンツォーネ元禄


戦後の混乱に一区切りがつき、イタリアに外国からの観光客が増え、経済が豊かになり出した50年代の前半は、カンツォーネへの外国からの影響といっても、アメリカのクルーナやフランスのシャンソンであったから、甘美さに色がついたくらいで、それほど変化があったとは見えず、情緒てんめんとしたラブソングが増える。戦前からあるにはあったが、カンヌ、ニース、モンテカルロの大歓楽地に伍して観光客を招致すべく客のディナーショーとして企画されたのがサンレモ音楽祭である。かつてナポリの名物だったピエディグロッタの歌のコンテストを真似て、プロ歌手に歌を競わせる趣向のショーの1951年第1回の出場歌手は、女性のニッラ・ピッツィと男性のアキッレ・トリアーニに、女性デュエットのドゥオ・フザーノのたった4人。彼女らが入れかわり20曲を歌っただけだったが、RAI(イタリア国立放送)がタイアップして放送したために、まだ欧州全体が娯楽に飢えていた時期であり、2月末の話題のない冬枯の時節でもあったために、入賞曲がヨーロッパ各地で歌われたりインストルメンタル化されたりしてヒットした。イタリアのレコード会社がこのおいしい話を見逃すはずはなく、第3回以降、参加会社や歌手は増える一方で、第4回からは審査員は一般人が参加、第5回からは音楽出版社のユニオンが正式に協力することとなって、御大クラウディオ・ビルラまで担ぎ出す(彼は肝心の当日にインフルエンザとなり出場せずレコード演奏だったが、絶大な人気のために彼の歌うはずだった「悲しみよ今日は」が1位、「急流」が2位を占めた。

戦後の混乱に一区切りがつき、イタリアに外国からの観光客が増え、経済が豊かになり出した50年代の前半は、カンツォーネへの外国からの影響といっても、アメリカのクルーナやフランスのシャンソンであったから、甘美さに色がついたくらいで、それほど変化があったとは見えず、情緒てんめんとしたラブソングが増える。戦前からあるにはあったが、カンヌ、ニース、モンテカルロの大歓楽地に伍して観光客を招致すべく客のディナーショーとして企画されたのがサンレモ音楽祭である。かつてナポリの名物だったピエディグロッタの歌のコンテストを真似て、プロ歌手に歌を競わせる趣向のショーの1951年第1回の出場歌手は、女性のニッラ・ピッツィと男性のアキッレ・トリアーニに、女性デュエットのドゥオ・フザーノのたった4人。彼女らが入れかわり20曲を歌っただけだったが、RAI(イタリア国立放送)がタイアップして放送したために、まだ欧州全体が娯楽に飢えていた時期であり、2月末の話題のない冬枯の時節でもあったために、入賞曲がヨーロッパ各地で歌われたりインストルメンタル化されたりしてヒットした。イタリアのレコード会社がこのおいしい話を見逃すはずはなく、第3回以降、参加会社や歌手は増える一方で、第4回からは審査員は一般人が参加、第5回からは音楽出版社のユニオンが正式に協力することとなって、御大クラウディオ・ビルラまで担ぎ出す(彼は肝心の当日にインフルエンザとなり出場せずレコード演奏だったが、絶大な人気のために彼の歌うはずだった「悲しみよ今日は」が1位、「急流」が2位を占めた。

 まだ人気を保っていたナポレターナも負けじと1年遅れて音楽祭を始め、こちらからもヒット曲が生れた。 

さて次回は「カンツォーネの新しい展開」ドメニコ・モドゥーニョ。偉大なシンガーソングライター。イタリア語ではカンタンテ(歌手)とアウトーレ(作曲家)を接続してカンタアウトーレと呼ぶ!
死去した現在でもデビュー以前が謎に包まれ、ジプシー貴族との説もある。サンレモでの第6回目の「ヴォラーレ」が大ヒットし、ミスターボラーレとなり世界的なカンタアウトーレとしての地位を作り上げた。
次回をお楽しみに…

音楽評論家 河合秀朋氏(元キングレコードプロデューサー)
昔よく語り合った人で、もう1人の音羽たかし氏(元キングレコード常務・訳詞家・プロデューサー)と3人で以上のような話合を良くしたものでした。

2022年7月28日
記 日本カンツォーネ協会 戸山英二

2.カンツォーネ界の新しい展開


カンツォーネを甘美の泥沼から救ったのはドメニコ・モドゥーニョだった。
この偉大なシンガーソングライター…イタリア語ではカンタンテ「歌手」とアウトーレ「作曲家」を接続してカンタウトーレ(複数の場合はカンタウトーリ)と呼ぶ…は、デビュー以前から他界した現在に至るまで謎に包まれ、ジプシー貴族との説もあるが、デビュー当時から大家の風格を持ち、独特の強烈な個性の歌で次々に大ヒットを生んだ。モドーニョの生まれは南イタリアのプーリア地方アドリア海側最先端のブリンディスである。彼の自作自演した第8回目のサンレモ優勝曲はリフレイン最初の文句「ヴォラーレ(日本語で「飛ぶ」)が世界的に大ヒット。彼自身の歌で全米ヒット第1位の外国人歌手初のミリオンセラーとなり、彼はこの年に設立されたグラミー賞第1回受賞者となった。モドーニョがカンツォーネ界に与えた影響は絶大で、彼の成功に続けとばかり、ジーノ・パオリ、セルジョ・エンドリゴ、ルイジ・テンコ、ウンベルト・ビンディ、ピーノ・ドナッジョ、トニー・レニスといった逸材、奇才、異才のニュータイプのカンタウトーリが次々に出現し、1955年を期に空前のカンタウトーリブームが開幕する。

 それと相呼応して、アメリカからシャウトシンガーブーム、次いでぐんと強烈なロックブームが到来し、トニー・ダララ、ミーナ、アドリアーノ・チェレンターノという前代未聞の強烈な個性が現れ、壮観な60年代の黄金時代へと突入する。 

また、それまではレコードは室内でしか聴けなかったものが、ポータブルとジュークボックスの普及で様変わり。サマーバカンスで都会が空になり、セールスがまったく期待できなかったサマーシーズンが一転してかき入れ時期となり、夏に似合った、ニコ・フィデンコ、リタ・パボーネ、さらにジャンニ・モランディといった歌手たちが輩出する。


 戸山英二 記

次回はカンツォーネのコンテストブーム